この時、俺は目の前に広がる光景が信じられなかった。
俺の腕は、間違いなく杏寿郎の鳩尾を捉えていた。
それは、流石の杏寿郎であっても回避する事は不可能で必ず貫いていたはずだった。
正直、ここまですれば、流石の杏寿郎も鬼になるに違いないと持っていたずだったのに……。
それだというのに、俺の拳は、杏寿郎の身体を貫いてはいなかった。
それをやったのは、勿論、杏寿郎ではなかった。
他の誰かが俺たち二人の間合いに入ってそれを受け止めたのだ。
しかも、刀身で……。

「すみません。助けに入るのが、遅くなりました、兄上」
「!!」

そして、その人物をその目で捉えた瞬間、俺の心が震え、何故だか暫く動けなくなってしまった。
その漆黒の髪に緋色の瞳を持つ人物に俺は、釘付けになってしまったのだった。


~悪夢は夢のままで終わらせよう~


「瑠一郎……! お前、どうやって…………っ!!」
「兄上。無理に身体を動かしてはいけません。傷口に障ります」

杏寿郎は、今自分の目の前に広がっている光景が信じられなかった。
どう考えても、俺と猗窩座の間合いには誰も割って入る事など不可能な状況だった。
にも拘らず、瑠一郎はその間に割って入っただけでなく、己の刀で猗窩座の拳を受け止めてしまったのだ。
もし、それがなければ、俺は間違いなく、今頃あの拳に鳩尾を貫かれていただろう。
だからこそ、思わず確かめてみたくなってしまった。
俺の型を担いで竈門少年たちの許へと俺を運んでくれたのは、本当に瑠一郎だったのだろうかと……。
だが、それを確認しようと無理に身体を動かした途端、身体中に激痛が走って、上手く動かせなかった。
その事に気付いた彼が、俺の事を優しく支えてくれた。
そして、何処か呆れたように聞き慣れた声でそう言った。

「…………こんな身体で奥義を使うなんて……無茶にも程がありますよ? 兄上は、死にたかったのすか? ……もしかして、私との約束、忘れていましたか?」
「!!」

彼の言葉を聞いた途端、ハッとさせられた。
そうだ。俺は、瑠一郎と約束をしていたのだ。
必ず、生きて再会すると……。
そして、猗窩座と券を交えている間にその約束の事を俺はすっかり忘れてしまっていた事に漸く気が付いた。
瑠一郎の約束より、自分の責務を全うする事で頭がいっぱいになってしまっていた事を……。

「……りゅ、瑠一郎。すっ、すまない……。怒っているか?」
「えぇ……少しだけ。私との約束を蔑ろにされた事に関しては……。ですが……」

そう言った時の彼――瑠一郎の顔から俺は目が離せなかった。
俺に対して、慈愛に満ちたような笑みを浮かべている瑠一郎の顔が……。

「……ですが、兄上はちゃんと約束を守ってくれた。ちゃんと生きて……私とこうしてまた再会してくれました」

優しいいつもの瑠一郎の声が俺の耳に届く。
それなのに、何なんだ? さっきからずっと感じているこの違和感の正体が、まだわからなかった。

「兄上は、もう止血をする事だけに集中して呼吸を使用してください。……炭治郎くん。兄上の事、任してもいいかな?」
「えっ? あっ、はい……。わかりました」
「ありがとう。君も身体が辛いだろうけど、兄上の事、お願いね」
「! まっ、待て! 瑠一郎!!」
「? 兄上?」

竈門少年に俺の事を任して、自分は猗窩座の許へと迷ういなく歩き出そうとする瑠一郎の事を俺は咄嗟に瑠一郎の掴んで止めた。
その行動に瑠一郎だけでなく、竈門少年も驚いているように見えたが、今は関係なかった。

「……いくな、瑠一郎」

そして、何とか肺に負担がかからない程度の声でそう言った。

「無理です」
「お前独りで……敵う相手で……ない」
「はい……。相手があの上弦の参で、兄上をこんな状態にした奴ですからね。ですから……私はあくまでも時間稼ぎをするだけです」
そう言った瑠一郎は、東の空へと視線を向けた。

「あと幾刻もすれば、夜が明けます。流石にそうなれば、あちら側も諦めて引き下がるはず。それ以上の深追いも今回はしませんので……」
「だっ、だったら……せめて俺の……刀を――――」
「それは、兄上の刀であって、私のではありません。私が扱えば、いくら兄上の刀とは言え、すぐに折れてしまいますよ。だから……」

そう言った瑠一郎は、俺の日輪刀ではなく、羽織へと手をかけた。

「……代わりに……これをお借りします。……今の兄上にこれを羽織る資格なんて……ないですから」
「! まっ、待て瑠――――っ!?」
「れっ、煉獄さん!?」

そして、そのまま一気に羽織を剝ぎ取ると、俺の手を乱暴に降り払って、瑠一郎は再び歩き出してしまった。
その瑠一郎の行動に驚き、もう一度引き止めようとしたが、身体に上手く力が入らず、体勢を崩してしまった。
そんな俺の事を見た竈門少年は驚き、心配してくれたのか、すぐさま俺の許へと駆け寄ってくれた。
だが、それでも瑠一郎は、足を止める事はなかった。
俺がちょっとでも無茶をしたら、いつもだったらすぐに駆け寄って叱ってくれるというのに……。
いつもと同じはずの、いつもとは少し違う瑠一郎のその言動が余計に俺の事を焦らせた。
このまま瑠一郎の事を行かせたら、もう戻って来なくなると……。

(……落ち着け……早く呼吸を整えろ。早く止血を終わらせるんだ)

そして、一刻も早く身体を動かせるようにしなければ、俺は間違いなく失ってしまう。
俺の事を救ってくれた瑠一郎の事を……。
それだけは、何が何でも阻止しなければ……。
もう大切な人を誰一人失いたくないのだから……。





* * *





(…………あぁ……これは……とても重いですねぇ……)

杏寿郎から半ば強引に剝ぎ取った羽織を身に纏った瑠一郎は、そう感じていた。
この羽織自体は、とても軽かったが、それでも瑠一郎には重く感じたのだ。
そもそもこの羽織は、歴代の煉獄家の柱たちがその証として身に纏っていたものだ。
だから、本来なら、私の方がこれを身に纏う資格などありはしないのだ。
煉獄家の血筋ではない、私なんかが……。

(……父上……歴代の炎柱様。……今だけは、お許しください)

そして、私に少しだけでいいので力を、勇気をください。
兄上を、杏寿郎を守る為の……。

「…………貴方と兄上の真剣勝負に割って入ってしまった事、まずは謝ります。すみませんでした」

そして、瑠一郎は、猗窩座と向き合うと深く息を吸ってから、そう口を開いた。

「ですが、もう勝負はとっくに着いていました。兄上が奥義を放っても貴方には勝てませんでした。身体の傷もそう簡単には治りませんし、ここまで打ちのめされても、兄上の気持ちは一切変わりませんでした」
「…………」

なるべく、猗窩座との戦闘を避けつつ、少しでも時間稼ぎをすべく、瑠一郎は言葉を続けた。
それを猗窩座は、何故か驚くような表情を浮かべたまま、ただ瑠一郎の事を見つめていた。

「ですので、これ以上の戦いは、どちらにとっても利点はありません。もうすぐ夜明けです。本来ならあり得ないという事は承知のうちですが……このまま手を引いてはいただけないでしょうか?」

鬼狩りが鬼を目の前に現れたのなら、逃げずに戦うべきだという事はよくわかっている。
どんなに相手が強敵だろうと決して逃げてはいけない。
だが、今の瑠一郎は、それ以上に杏寿郎の命を守り抜きたかった。
だからこそ、こんなあり得ない提案を上弦の参を相手にして言っていた。
それだというのに……。

「あの……失礼ですが、私の話、聞いてもらえていますか?」

その相手である上弦の参――猗窩座は、何の反応を示さなかった。
夢で見た彼だったら、杏寿郎にかなり固執していた為、勝負を邪魔されたら、すぐに怒っていただろう。
そんな反応すら、瑠一郎には何故か向けてこなかった。

「あの――――」
「似ている……」

そんな彼に対して、痺れを切らした瑠一郎がもう一度、口を開きかけたその時、猗窩座がポツリとそう呟くように言った。

「……お前……名前は?」
「生憎ですが、私は貴方に名乗る程の者では――――」
「いいから名乗れっ!!」
「!?」

その瑠一郎の返事を聞いた猗窩座は、何故か急に声を荒げてそう言った。
その事に瑠一郎は、正直驚きが隠せなかった。

「俺は、気に入った奴の事は、名前を憶えておきたいし、なるべく名前で呼びたいんだよ。どうしても嫌だというなら、杏寿郎たちから無理やりにでも聞かせもらうが……いいか?」
「……わかりました。教えればいいんですね」

猗窩座のその言葉が決して脅しではないと理解した為、瑠一郎は少し呆れたように息を付いた。
一体、私の何処を気に入ったのか、正直よくわからなかった。

「私の名前はり――――」

――――それは、あいつらがお前に勝手に付けた名前だよ。……お前の本当の名前は……実の母親――夢璃(ゆり)が、付けた名。幻中(まもなか)璃火斗(りひと)だよ。

そして、観念したかのように自分の名前を名乗ろうとした時、ふとハクとの会話が頭を過ってしまった。
そのせいで一瞬迷って、一度口を閉じてしまった。
一体、彼には、どちらの名前を名乗るべきなのかと……。

「おい! さっさと名前を教えろっ! まさか名無しなわけないだろうが!?」
「! すっ、すみません。……ちょっと、変な事が頭に過ってしまいまして……」

そんな瑠一郎に対して、何処か苛立ったようにそう猗窩座が言った。
遠くの方でそんな己の事を心配そうに見つめている杏寿郎たちの視線にも気付いた為、瑠一郎は慌ててそう言った。

「私の……字名は、瑠一郎。煉獄瑠一郎と申します。先程、貴方が手に掛けようとした男の双子の弟です」
「お前が杏寿郎の弟? その形、全然似ていないがなぁ……」
「…………」

そして、悩んだ結果、聞き慣れたいつもの名前で名乗る事にした。
それを聞いた猗窩座が何気なく言った言葉が、瑠一郎の心を少しだけ抉った。

「……だが、お前の闘気は、至高の領域に限りなく近い。……いや。既に行きついていると言っても過言ではない程、高められている。瑠一郎。お前は、杏寿郎より、遥かに強いな」
「何を検討違いされているのか知りませんが、私はさほど強くはありませんよ。階級も炭治郎くんたちと同じ癸です」
「癸……。癸だとっ!?」

瑠一郎の言葉を聞いた猗窩座は、心底驚いたような表情を浮かべた。

「それ程の闘気を身に纏っておきながら、そこにいる弱者たちと同じ扱いなのか!? 鬼殺隊の連中は、一体、何処に目を付けているんだ!?」

あり得ないと呟きながら、猗窩座は言葉を続けていく。

「瑠一郎。お前は、鬼になるべきだ。お前ほど強ければ、すぐに十二鬼月になれる! お前の実力をちゃんと評価してもらえるんだっ!!」
「お断りします」

そんな猗窩座の勧誘を瑠一郎は、意図も簡単に断った。

「仮にもし、私が鬼になってしまった場合、その頸を役目は、身内でもある兄上がやる事になってしまいます。私は、そんな惨い仕打ちを兄上にさせたくはありませんので……」

余程の強敵ではない限り、身内で鬼を出してしまった場合は、身内の誰かにその責任を取らせるのが鬼殺隊の掟でもある。
そうなれば、柱である杏寿郎がその役目を担うのは、必然的な事だ。
優しい杏寿郎にそんな事をさせたくはないし、苦しませたくもなかった。

「それに、貴方は何かを勘違いをされているようですが、この階級は私の実力を知った上で、私の考えをお館様が汲み取ってくださったからいられるものです。……貴方方の部下に自分の名前を言われたくらいであっさりと呪い殺すような器の小さいタコ野郎とは違うのです。ですので、私は鬼になる気も、貴方方の上司にも仕える気も全くありません」

もう鬼殺隊の中では、鬼舞辻無惨の名前はそれなりに知れ渡っているというのに……。
それなのに、炭治郎の話では、名前を口にしただけでも鬼は鬼舞辻に呪い殺されるらしい。
そんな心の狭い人物の下に就くのは、正直御免である。

「それに私の提案の方は、貴方にとっても悪い話ではないかと思いましたが? ……こんな弱い癸の鬼殺隊士に打ち負かされて退散するなんて、上弦の誇りにも傷が付かなくて済むと思いますよ?」
「お前は弱くない」

その瑠一郎の言葉を聞くや否や、猗窩座はすぐにそれを否定した。

「大抵の奴は、俺を目の前にしてそんな事を言う奴はいない。そんな事を本気で言える奴は、かなりの強者か、恐れ知らずの大馬鹿者のどちらかだ」
「でしたら、私は貴方の言う後者の方かもしれませんね」
「お前に限ってそれはない。今、こうして俺と話している間もお前からは全く隙を感じなかった。刀すら構えていないお前にだ。やはり、お前こそ鬼になるべき存在だ、瑠一郎」
「…………いい加減にしてください」

猫なで声に近い声で己の事をそう誘う猗窩座に対して、瑠一郎はそう静かに言った。

「……やれ継子になれや、やれ鬼になれや、やれ俺のモノになれはとか……私の顔を見る度に揃いも揃って同じ事を言って……本当にいい加減にしてもらいたいですっ!」
「りゅっ、瑠一郎……」

遠くの方で杏寿郎が若干焦っているような声が聞こえた気がしたが、瑠一郎はそれを一切無視して言葉を続けた。

「とにかく! 私も兄上と同じように何を言われようが、鬼になる気は一切ありません! お引き取りくださいっ!!」
「……瑠一郎。……やはり、お前は面白いっ!!」

鬼になる誘いを断れたにも拘らず、猗窩座の目は何故か輝いていた。
そして、それと同時に猗窩座は右足を力強く踏み込んだ。

「術式展開……」
「!!」

その技を瑠一郎は、知っていた。
夢で何度も見たものと同じように腰を深く落とした猗窩座の足元に雪の結晶のような文様が浮かび上がっていく。

「破壊殺・羅針」
(あぁ……。結局、こうなりますか……)

猗窩座が血鬼術を使った事で瑠一郎は、諦めたように漸く日輪刀に手をかけた。

「鬼にならないというのなら、お前をその気にさせるまでだ。俺は、お前の事を心底気に入った! ここでお前を半殺しにしてでも連れ帰って、ゆっくり鬼にしてやるぞっ!! 瑠一郎っ!!」
「そういう過激な勧誘も、私は受け付けておりませんっ!!」

その言葉と共に猗窩座が一気に距離を詰めてきて、瑠一郎へと拳を振るった。
その拳を瑠一郎は、しっかりと日輪刀で受け止めるのだった。









悪夢シリーズの第21話でした!
前回で遂に煉獄さんを救済する事に成功しました!
今回は、その後の瑠一郎と猗窩座が対峙するまでの流れを書いています。
何気に第6話で書いた内容から煉獄さんと瑠一郎が逆転しています。

【大正コソコソ噂話】
その一
字名とは、成人男子と女子が実名以外につけた名の事を言います。
ハクから、璃火斗と言う名前を聞かされたことにより、瑠一郎は、今の名前は字名であるという事をなんとなくで理解した上でそう猗窩座には名乗っています。

その二
炭治郎くんと仲が良かった瑠一郎は、鬼舞辻無惨の呪いについても炭治郎くんから教えてもらっています。
それを知った瑠一郎は、鬼舞辻は「お館様とは違って器の小さい人物」という認識でいます。
※タコ野郎と言わせたのは、鬼滅の原作を最後まで読んでもらった人だけにわかるネタです。


R.3 10/13