「お前だけを犠牲にはしない」

深夜の閑散としたオフィス。
今ここにいるは、虎徹とワーカホリックな男である元恋人のライアンだけだった。
そんな中、虎徹は、そう言って深呼吸した後、続けて決心したことをライアンに口にした。

「フォースのコンペに勝ったら、俺があそこに常駐するよ」


~ワーカホリックのあいつが変わった瞬間~

「……は? マネージャ代理のお前が常駐なんか行ってどうするんだよ」

その言葉を聞いたライアンは、訳が分からないといった表情を浮かべた。

「週三とかだったら行けるだろう。前例だってあるしな」
「それは、物凄く大きな案件の時だろ? メガバンクとか、証券会社とかさ……」
「俺が常駐に来るなら、コンペ通してやるって言われた」
「…………えっ?」

その虎徹の言葉にライアンの表情が固まった。

「今回のコンペに勝つ意義を考えれば、悪くない話だと、俺は思う」
「いつそんな話? …………まさか、あの時か?」

ライアンは、視線を彷徨わせた後、今日のコンペの合間に虎徹が給水を摂る為、コンペ会場から離れたこと、そして、その時虎徹が取引先の役員である茂田という男と二人っきりでいたことを思い出したようだった。

「……でも、何で虎徹なんだよ?」
「そっ、それは……」

ライアンの問いに虎徹は、口籠った。

「何があった。言えよ」

そう言ったライアンの声は、酷く怖かった。

「俺には、言えないことなのかよ?」
「…………」
「虎徹!!」

わかっている。わかっているんだ。
ちゃんと話さないといけないことは……。
けど、あの時のことを思い出すのも、今のライアンに告げることも、凄く勇気が必要だった。

「…………胸に」

何度か息を整えてからそう口にしたが、やっぱり少しだけその声が震えてしまっているのが、虎徹自身にも分かった。

「突然、胸に抱き寄せられて……あそこ、少し触られた。……それ、だけだ」
「!!」
「そんなこと、よくある」

虎徹の告白にライアンの表情が一変するのを見て、虎徹は少しだけ嘘をついた。
あの男に『抱いてやる』と囁かれたことを、ライアンには言わなかった。
そして、ライアンに何か言われる前に虎徹は、自分でそう言った。

「そう……だよな?」
「…………」

俺自身もそう思いたかった。
あんなことぐらいで傷付いてはいけない、と……。
ライアンは、そのまま虎徹のことを見つめ、全身を強張らせている。
いつもだったら、上や取引先に逆らう者を叱責する筈なのに、何故か今は呆然としている。
まるで、バグでも生じたように……。
どれくらい、そうしていたのか正直わからなかった。
ライアンが突然、オフィスの出口に向かって大股で歩き始めるまで……。

「おっ、おい。何処に行くんだよ」
「……フォース。茂田がまだいるかもしれない」
「行ってどうするんだよ?」

それに虎徹は、必死に後を追って問いかけた。

「殺してやる」

そう言いながら、ライアンはカードリーダーにカードを押し付けた。
その声は、とてつもなく静かだったが、確かな怒りが込められていた。

「あの野郎、引き摺り出して、嬲り殺してやる!」

そして、ライアンの怒号が二人しかいないオフィスに響き渡る。
乱暴に扱われたせいか、カードリーダーは、上手く反応しなかった。

「やめろよ! 少しは落ち着けって……」
「そんなこと、よくあってためるかよっ!」

虎徹は、手を伸ばし、ライアンからカードをもぎ取る。
そして、少しでもライアンの心を落ち着かせようと言葉を紡ぐ。
だが、こちらへと目を向けたライアンのその瞳は、激しい光が帯びていた。

「一度だってあってたまるかよっ! ……あのジジイ、本当に殺してやる!」
「暴力は、ダメだ」
「暴力を先に振るったのは、あっちだろ!」

そう言いながら、ライアンは虎徹からカードを奪い返す。
確かにそうだ。
今日の出来事もそうだったが、この前行われた親睦会という名の接待でもそうだった。
今思えば、最初からライアンを外に誘き出すこともあっちの作戦だっただろう。
ライアンが席を外したタイミングを見計らい、一緒に同席させた新人たちを彼は、脱がせようとした。
だから、その時は、虎徹が新人たちの代わりに脱いだのだ。
その時、あの男がさり気なく自分の腹を舐めるように触った感触の気持ち悪さを今でも憶えている。
あと少し、ライアンが戻ってくるのが遅かったら、きっと俺は、全部脱いでいたかもしれない。
そんな状況だった。

「そうだけど……。俺は、まだ死んでないし、これからも生きていかないといけない。だから……このコンペに勝って俺は、みんなの定時を守ってやりたい」

このコンペに勝って受注を取れなければ、うちの会社は間違いなく裁量労働制になってしまう。
そうなれば、未来ある若者が自分がやれる仕事量より多くの仕事をこなし、結果壊れることになる。
それだけは、何が何でも避けてやりたかった。

「……お前を常駐なんか行かせねぇ。俺が許さない」

ライアンを説得しようと虎徹は、手にしがみついてみたが、それをライアンは振り払った。
そして、とても苦しそうに、呻るように言う。

「…………もういやだ。もう沢山だ。もう……耐えたくない」

そして、そのまま両手に手を顔を埋める。
虎徹の目の高さくらいにあるライアンの肩が酷く震えていた。

「……耐えたって、一つもいいことがなかった」

何十年もの間、押し殺してきた思いが一気にライアンから溢れ出すのが、虎徹には見えた。
そうだった。お前は、ずっと耐えてきたんだよな……。
接待の件で心が参ってしまった虎徹は、行きつけのバーの店主から、店主の弟が経営している海外の会社に来ないかという引き抜きの話をもらった。
その話を聞きに虎徹は、有休を取って海外へ行った。
その時、そこでたまたま出張で訪れていたライアンと出会い、久しぶりに二人っきりで飲んで彼の過去の話を聞いたのだ。
両親からも、学生時代の部活の先輩や監督も、そして、前の会社にいたあのブラックな上司も、誰もライアンの味方ではなかった事を……。
そんな話をした上でライアンは、俺に『逃げろ』と言った。
引き抜きを止めるのではなく、逃げろと……。
それがあったから、虎徹は、この会社に留まることを選んだ。
お前だけに辛い思いをさせてはいけないと思ったから……。
けど、結局、俺のせいでまた哀しい思いをさせてしまった。
ごめんと言って、背中を優しく擦ってやりたかったが、今の虎徹にはそれが出来なかった。
残念ながら、今は虎徹の方がライアンの上司だったからだ。
接待の件でライアンが降格されず、俺の上司のままだったら、出来たかもしれないことだった。

「…………ありがとな、怒ってくれて」

だからこそ、虎徹はなるべく感情を抑えてそう言った。

「自分がされたことって、すぐには怒れないもんだな。でも、お前が怒ってくれたから……俺は、もういいわ」
「よくない……。俺は……よくない!!」

ふと、虎徹は、最近見た時代劇『忠臣蔵』のことを思い出した。
三百年以上も前の赤穂藩の筆頭家老もそうだったかもしれない。
よくない、と。主君が遠い江戸で切腹させられたことを知って、本当は陰で身もなく泣いていたのかもしれない。
殿は潔く腹を切った。桜のように散った。
でも、俺はよくない、吉良を討つと……。

「…………ここは、ならぬ堪忍、すがるが堪忍」

まずは、自分の呼吸を落ち着かせる意味で虎徹は言った。

「大石は、言ってたなぁ……。吉良を討つ為には時機を待たねばならぬって」
「オオイシ?」

虎徹の言葉にライアンは、顔を上げてこちらを見る。
その目は、いつの間にか涙の膜で覆われていた。

「大石内蔵助。忠臣蔵の。赤穂浪士たちは、これ以上待てない、今すぐ吉良を討つ、って逸るんだけど、大石は言い続けるんだよ。ならぬ堪忍、するが堪忍ってさ」

突然、忠臣蔵の話をされ、ライアンの涙は引いたらしく、呆気にとられたようだったが、涙を拭う。

「……前も思ったんだけど、何でそんなおっさんくさいのにハマってんだ? ってか、虎徹はおっさんだったなぁ」
「だぁ! それは、余計だっつーの! ……兄貴の奴が言ってたんだよ;どうして、三百年以上も前のこの話が愛され続けてきたのか、考えてみろってさ」

それが虎徹には、漸く分かった気がした。
狭い会社の中で、自分がされたことを誰にも言えなかった筈だ。
でも、心の底では思っていたのだろう。
今のライアンのように、殺してやる、と……。

「……堪忍し続けて、その先に勝利はあるのか」

そう言ったライアンは、考え込んでいる。

「堪忍するだけじゃ、きっと勝てないだろうなぁ……」
「じゃぁ、どうすれば勝てるんだよ」
「…………わからない」

信じるなら今かもしれない、と虎徹は思った。
もう耐えたくない、とそうライアンは、言った。
行きつ戻りつを繰り返しながら、こいつは変わろうとしている。

「…………実は、最近よく眠れてない。飯もあまり食べてないし、頭が上手く働かないんだよ」
「食べてない?」

虎徹の言葉にライアンは、驚いている。
それを見た虎徹は、少し困ったように笑みを浮かべた。

「だからかなぁ……。あんま、調子よくねぇんだわ。判断ミスも続いてる」
「そういや……あん時も、ビール缶、開けてなかったな……。でも、それって、鬱の初期症状とかじゃねぇのかよ? なんで、今まで言わなかった」
「なんでだろうなぁ……。あいつにあんなこと言われたからかなぁ? ……『腰抜け会社員』って。そう思われたくなくて、無意識に我慢してた。弱音も吐きたくなかった。けど……もう限界みたいだ」

今まで思っていたことをすべて吐き出したら、力が抜けた。
だから、虎徹はライアンに微笑んだ。

「俺が常駐に行って、あいつに好きにされるのが一番いい。そう思い始めてる」
「……あんな奴の言うことなんかに怯えやがって」

虎徹の言葉を聞いたライアンは、少しの間、黙って窓の方へと目をやった。
そして、再びこちらに視線を戻した時には、また目が吊り上がっていた。

「だったら、俺は、何の為にお前の盾になってきたんだよ。社長がお前を出世させようとしてんのは、虎徹が他の奴に出来ないことをやれるからだろ。違うのか?」
「…………」

ライアンのその声には、確かな苛立ちが伝わってくる。
それに、虎徹は、すぐに言葉を返すことが出来なかった。

「そんなこともわからないくらい、虎徹は参ってるのか? そうなのかよ? ……だったら、この先は俺だけでやる。……あいつを叩きのめしてやる」
「暴力は、ダメだ」
「暴力は使わない。でも、叩きのめす。それで、コンペにも勝つ!」
「そんなのどうやってだよ? 無理だろ」
「今のお前には無理かもな。でも、俺にだって意地ってもんがあるんだよ」

ずっと、上や取引先には逆らうな、逆らえない、と言っていた人間とは、まるで別人のようにライアンは、強情になっていた。

「ついでにフォースの意識も変えてやる。コンペに勝った後も二度とうちの社員にパワハラ出来ないようにしてやるよ」
「他の会社の意識を変えるなんて出来ないって言ったのは、お前だろ?」

無理だ。出来ない。どうせ、逆らえない。
今までのあいつらとの関わりのせいか、そんな考えが虎徹の心の奥に自分を縛る何かが生まれつつあるのを感じていた。

「出来る」

だが、ライアンは、違っていた。
再び、窓に目をやった横顔には、決意した表情が浮かんでいた。

「あいつらのことは、この俺が嫌って程知ってる。……今回のことでさらによく分かった」

あいつら。それは、茂田のように暴力で相手を従わせる人間たちのことだろうか。

「といっても、あと残っているのは、お前が何とかセッティングしてくれた親善試合の場だけか……。その機会を利用するしかねぇな」

親善試合。それは、虎徹がフォースに提案した草野球の試合の事だった。
試合なら、今度こそ対等に親睦が深められると思い、提案したのだ。

「……あと三日しかないけど、何か具体的な策でもあるのかよ?」
「ない」

虎徹の問いにライアンは、あっさりとそう言った。

「とりあえず、近くのジムで走ってくるわ」
「えっ? 今から? こんな遅くにやってる場所あるのかよ?」

その意表を突かれるようなライアンの言葉に虎徹はそう尋ねた。

「二十四時間やってる。梅雨の時期にも走れるように契約した。ランニングマシーンで走りながら、タブレットで忠臣蔵観てみるわ。動画配信サービスで観られるよな?」

そうと決めたら、こいつの行動はいつも速い。
机の引き出しからランニングウェアを引っ張り出し、デイバックに放り込む。

「じゃ、虎徹は家に帰って、ちゃんと休めよ」
「おっ、おい!」

そう言って、さっさとオフィスの出口に向かっていくライアンに声を掛けたが、ライアンはその足を止めることはなかった。
本当に、任せてしまってもいいのだろうか。
このまま、本当に信じて送り出すのが、正直怖かった。
俺なんかの為に変に無茶をしないか。
だが、少し嬉しくなってしまっていた。
俺なんかの為に『殺してやる』とまで発言してしまうあいつの態度に……。
そして、窓に目をやったあの時の横顔が目に焼き付いて離れなかった。
あいつは、本気で変わろうとしているのだと、わかったから……。
あいつと別れてもう三年も経つのに、俺はまだあいつの事が好きだと改めて実感してしまった。
だから、少し怖いけど、俺はあいつのことを信じてみようと思った。
例え、その結果、どんなことが待ち受けていようとも……。







Fin...


某お仕事小説で獅子虎+モブ虎パロ小説でした!
この話を読んだ瞬間、「これ、獅子虎で書きたい!」と思ったら、書き上げてしまいました。
兎虎でもよかったんですが、ライアンの方がバニーちゃんより体育会系なイメージだったので、今回は獅子虎+モブ虎です。
この話でバニーちゃんを割り振るなら、「すぐに会社を辞めたいと言い出す後輩くん」かな?


H.31 4/21